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上村松園随筆集

上村松園随筆集 |学習と教育を支援する通販会社-YTT Net

 商品NO:BSH-793
 B6変判/200頁/発行:2022.9

BOOK 上村松園随筆集 内容詳細



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美人画の大家として知られ、気品あふれる女性像を数多く描いた日本画家・上村松園の画家人生を綴った随筆集。付録に鏑木清方や井上靖ら同時代人による松園評も収録。
 著者:上村松園

上村松園随筆集 目次

▶彩管余滴
▶わが少女の日
▶私の執って居る絵画の研究法
▶日本画と線
▶絹と紙の話と師弟の間柄の話
▶美人としての標準
▶女の顔
▶三味線の胴
▶絵筆に描き残す亡びゆく美しさ
▶帯の巾が広すぎる
▶切れの工夫
▶わが宝物
▶中支慰問の旅
▶そのころ
▶栖鳳先生を憶う
▶土田さんの芸術 ―― 土田麦僊追悼
▶今日になるまで
▶画筆に生きる五十年
▶芸術三昧即信仰 ―― 生きる事に悶えた四十代

付録

▶松園さんの研究  鏑木清方
▶常緑松園 ――上村松園――  鏑木清方
▶京都より  与謝野晶子
▶上村松園女史へ ――楽しき人のあり――  長谷川時雨
▶上村松園  井上靖
▶上村松園  円地文子
  年譜/初出一覧

▶彩管余滴
 ・画壇生活五十年
そう――――
十三の時から絵筆をもちましたから、私の画壇生活はかれこれ五十年になりましょう。その長い間のことを振返って見ますと、いろいろの思い出があり、感慨無量のものがあります。その間、随分苦労もいたしました。私とても、世間並にいろいろな苦労、精神的な苦労、物質的な苦労、そのほかあらゆる世路の艱難をなめて参りました。しかし、私は、そのあらゆる艱難と闘い通し、それを克服して、今では絵筆三昧、芸術三昧の境地に徹することができるようになりました。この境地は、芸術に限らず、どんな仕事に携わっている方々にも、そして、世路の艱難と闘い通し、それを克服した後に来る悟りというものを体得した人々には、よく理解していただけると思いますが―――
何時ぞや、或る新聞か雑誌の記者の方が、「あなたは宗教とか信仰とかいうものに対して、どんなお考えをおもちですか?」と、私に尋ねられたことがありました。私は即座に「絵筆三昧、芸術三昧が、とりも直さず、私の宗教であり、信仰であります。」とお答えしました。これも長い間の修練の賜でございましょうが、お蔭さまで今では、芸術と生活一如とでも申しましょうか、そういう三昧の境地に安住して、どんな事が起っても、物に動じない心構えができて参りました。
 ・模写の修行
この頃の人々は、よくスケッチとか写生とか申しまして、その方面の勉強を一生懸命にしておられるようですが、私も若い時から随分その方の勉強をして参りました。今のような写生帖こそもっておりませんでしたが、和紙を綴じた手帳と矢立を懐から離さず、古今の名画という名画を片ッ端しから描写して歩きました。例えば、今の祇園祭が昔は屏風祭といわれた程で、あの辺の家々では、立派な屏風を並べたものでしたがそれを片ッ端から模写して歩いたものでした。それから或家に名画が所蔵されていることを聞きますと、早速拝見に出掛け、それを模写させて頂きました。その頃の世の中はまことにのんびりしたもので、まるで見知らぬ方のところへ伺っても、快く招じ入れて下さって、結構なお茶やお菓子まで出して下さったものでした。私はその画の前でどっしりと腰を落付け、或時は小半日もかかって、それを毛筆で模写させていただきました。そんな風で、私の模写は、日本画のあらゆる流派に亘り、土佐絵でも大和絵でも又は狩野派でも南画北画から四条まで、何でも彼でもやりました。人物画はもとより、山水でも動物でも猟りつくしました。今の私がどんな線でも自由に描きこなせるのはそのお蔭だと思います。私は今でも、やはり機会がある毎に、名画の模写を続けております。博物館などに名作の展観がありますと、何時も拝見したり模写させて貰いに参りますが、博物館の係の方は、私の癖をすっかり呑み込んで下さって、閉館の時間を三十分も延ばして下さるようなことが度々あります。私が若い時から模写して描きためた写生帳は何百冊となくたまっておりますが、或時近所に火事があったので、二階から火の粉の盛に飛ぶ壮観を写生していて、家人の立騒ぐのにふとわれに返って、今まで描きためた写生帳を思い出し、「これだけは、何に代えても持ち出さねばならない」と、山の様な写生帳を取片付けにかかりましたが、幸なことに大事にならず済んだこともなどもございました。私は毎年虫干の時に、この沢山な写生帳を見ては、いろいろな思い出に耽っております。
 ・楽しき時間
私は何十年となく、毎朝冷水摩擦を怠らず続けておりますが、そのお蔭で御覧の通り健康で、芸術の三昧境に浸ることができますのは、有難いことだと思います。

~本文より一部抜粋~

上村松園 うえむら しょうえん 1875(明治8) 年4月23日~1949(昭和24)年8月27日
日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。1875年(明治8年)、京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。1887年(明治20年)、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学、北宋担当の鈴木松年に師事。1888年(明治21年)、雅号として「松園」を用いる。鈴木松年の辞職により京都府画学校を退学し、松年塾に入る。1890年(明治23年)、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。1893年(明治26年)、幸野楳嶺に師事。隣家からの類焼のため中京区高倉蛸薬師に転居。市村水香に漢学を学び始める。1895年(明治28年)、楳嶺の死去にともない、竹内棲鳳(竹内栖鳳)に師事。1902年(明治35年)、長男・信太郎(松篁)が誕生。1903年(明治36年)、茶屋を廃業し、中京区車屋町御池に転居。1914年(大正3年)、間之町竹屋町に画室を竣工。初世金剛巌に謡曲を習い始める。1934年(昭和9年)2月、母・仲子死去。1941年(昭和16年)7月、帝国芸術院会員となる。10月、三谷十糸子と中国に旅行。1944年(昭和19年)7月1日、帝室技芸員。1945年(昭和20年)、奈良県生駒郡平城の松篁の画室である唳禽荘(れいきんそう)に疎開する。1948年(昭和23年)、女性として初の文化勲章を受章。1949年(昭和24年)8月27日、肺癌により死去。従四位に叙される。享年74。法名は、寿慶院釋尼松園。


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