石田徹也 聖者のような芸術家になりたい 内容詳細
1990年代から2000年代初頭の「失われた時代」をもっとも苛烈に、かつ精確に描き出した画家・石田徹也。
生誕50年となったいま、石田が作品に込めた想いを同時代史とともに読み解く。
監修:堀切正人
「聖者のような芸術家に強くひかれる。『一筆一筆置くたびに、世界が救われていく』と本気で信じたり、『羊の顔の中に全人類の痛みを聞く』ことのできる人達のことだ。自分は俗物だと思い知らされます。」(1999年冬頃)
石田徹也 聖者のような芸術家になりたい 目次
▶巻頭エッセイ
「社会的身体」から「生成の不安と恍惚」へ 水無田気流
▶1973-1994 0-21歳
絵が好きだった少年
▶1995-1997 22-24歳
退路を断って絵の道へ
閉じこもる
初個展「漂う人」
サラリーマンという表象
▶1998-2001 25-28歳
他人の自画像 ──
社会への目線
同化する人間
死と救済
ユーモアとギャグ
▶2002-2005年 29-31歳
ずーと描く、描くのが僕
内なる子ども
さまよえる自我
▶
column
サブカルチャーの時代と石田徹也 堀切正人
描かれなかった構想 アイデア帖、スケッチブックから 堀切正人
愛用の道具たち
石田徹也没後の海外評価をめぐって 川谷承子
▶
essay
石田さんのことは何も知らなかった 大槻ケンヂ
「ボイス」の頃と石田さんの顔 雨宮庸介
時空を越えた二人の石田徹也
── 絶望と希望の狭間で 和田友美恵
Notes 平林 勇
◎石田徹也の痕跡を求めて
◎石田徹也 略年譜
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石田徹也 いしだ てつや 1973(昭和48)年6月16日~2005(平成17)年5月23日
1973年に静岡県焼津市に生まれ、静岡県立焼津中央高校を経て、武蔵野美術大学を卒業後、東京にて精力的に絵画の発表を続けてきた。
元々高校は美術系を希望していたが、親からの強い要望で普通高校に入る。本人は苦痛を感じていたという。大学時代の友人に映画監督の平林勇がおり、共同で作品を製作していた。就職活動中に1社だけデザイン会社に行ったが、採用されず、画家として活動する。
蒸気機関車やビニール袋、便器などといった日常生活で使用するものと一体化した青年を題材とすることが多い。題材としている青年はほとんどが同じような顔をしており、作家本人と似ているが本人は否定している。後期作品ではメッセージ性を抑制し、より抽象的な作風になっていくが、これにはテーマは押し付けるものではなく、観た人がそれぞれ好きに感じてくれればいいという意図がある。2005年5月、踏切事故で死去。31歳没。
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