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BOOK

北斎と歌麿 ── 全2巻 ──

北斎と歌麿|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net

 商品NO:BSH-121 2巻組

北斎と歌麿 全2巻 内容詳細



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 ▶ソフト別商品

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 北斎と並び称されるひとり―喜多川歌麿。その作品や人物像!

「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした葛飾北斎。
国際的にもよく知られる浮世絵師として、北斎と並び称されるひとり―喜多川歌麿。その二人の作品や人物像に迫る!

※各巻分売いたします。下記詳細を参照ください。分売は「メールで申し込む」より承ります。
  ●歌麿決定版  ●北斎の春画


 歌麿決定版

葛飾北斎|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net

 商品NO:BSH-1203
 定価:2,600円(税込2,860円)
 監修:浅野秀剛/A4変判/168ページ/発行:2016.11


浮世絵黄金期の覇者、喜多川歌麿。本書は国内外の傑作約100点を厳選収録。また近年再発見された《深川の雪》なども掲載。
喜多川歌麿――。
その名は江戸の浮世絵師のうちにあってとりわけ傑出している。
「歌麿」という二文字は、浮世絵そのものを表す代名詞となっているといえるほど、彼が浮世絵界に与えたインパクトは大きい。また海外でも「UTAMARO」人気はすこぶる高く、諸外国の美術館に名品が多く所蔵されている。
本書は今日、数多く現存する歌麿の作品の中から傑作約100点を厳選し、紹介。
また、2014年に約60余年ぶりに再発見、公開された《深川の雪》も掲載する。浮世絵ファン待望の歌麿本の決定版!
歌麿決定版 目次

▶歌麿は何処へ行くのか
▶歌麿の世界
▶女絵師、歌麿の魅力
▶初期の作品 画風の模索、そして「歌麿」の誕生
●大首絵 女性の内面を描いた画期的な作品
●寛政の三美人 歌麿流の美女たち
●吉原の女たち 「青楼の画家」の女性描写
●街の女たち 世間で評判の美人たちを描く
●七分身図 女性たちのしなやかな身体美
●女性群像(二枚続・三枚続) 街の風景と名所を描く
▶後期の作品 禁制下の新たな挑戦
●絵入狂歌本 狂歌の世界を彩り豊かに描く
●春画 大胆な構図と見事な身体表現
▶主な掲載作品
「婦人相学十躰 面白キ相」「婦女人相十品 文読む女」「歌撰恋之部 稀ニ逢恋」「霞織娘雛形 簾」「当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」「当世踊子揃 石橋」「二つ枕」「武蔵野」「画本虫撰」「歌まくら」「ねがひの糸くち」「吉原の花」「深川の雪」など
▶肉筆画の美
▶歌麿の肉筆画
▶歌麿の五十年
▶歌麿と同時代の絵師たち、および歌麿イズムの継承者たち
▶評判に先駆けて美女を描く
▶歌麿が描いた江戸、描かなかった江戸
▶海を渡った歌麿 ――1890年の「日本版画展」
◆浅野秀剛×小林忠対談
歌麿研究の過去・現在・これから
歌麿略年譜/『歌麿 決定版』作品リスト


 北斎の春画

葛飾北斎|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net

 商品NO:BSH-1202
 定価:2,600円(税込2,860円)
 監修:早川聞多/A4変判/180ページ/発行:2019.12


浮世絵界の巨匠が描いた春画と艶本を世界最高クラスの名品で集成した完全版がついに登場!新発見・初公開作品も掲載。

大迫力のエロスと美の極致に迫る総カラー版。

◎巻頭:新発見の北斎肉筆画2幅
◎初摺「万福和合神」全図掲載
◎文章もすごい! 喜能絵之故真通
コラム [海女と蛸]
◎最高傑作・富久寿楚宇と浪千鳥の系譜
論考 [浪千鳥研究史]
◎肉筆画・艶本 傑作選
葛飾北斎
宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉は、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。
森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。
しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。
北斎は、浮世絵で高い芸術性を表したが、大衆的な『北斎漫画』の中にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。
葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。
ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。
1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。

喜多川歌麿
宝暦3年(1753年)頃? - 文化3年9月20日(1806年10月31日)とは、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。秘画本には「うたまる」としているものもある。
姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。なお、天明2年(1782年)刊行の歳旦帖『松の旦』に「鳥山豊章」、「鳥豊章」の落款例がある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。生年、出生地、出身地など不明。生年に関しては、一般には没年(数え54歳)からの逆算で宝暦3年(1753年)とされるが、関根只誠の『名人忌辰録』では没年が53歳とされているので宝暦4年(1754年)生まれとなり、また瀬木慎一の『日本美術事件簿』では宝暦5年(1755年)から8年(1758年)の間と推定している。出身に関しても研究者の間では文献から川越(野口米次郎や関根只誠が主張)と江戸市中の2説が論争されており、他にも京、大坂、栃木などの説もある。鳥山石燕のもとで学び、根津に住む。細判の役者絵や絵本を制作する。初作は安永4年(1775年)冬に北川豊章の落款で描いた中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』(しじゅうはってこいのしょわけ)2冊の下巻の表紙絵辺りであろうといわれる。錦絵においては安永6年(1777年)の細判「すしや娘おさと 芳沢いろは」が初作であった。初めは勝川春章風の役者絵、次いで北尾重政風の美人画、鳥居清長風の美人画を描いており、安永期では細判数点のほかに版本の挿絵が9点ほど知られている。また天明8年(1788年)から寛政初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として当時流行していた狂歌に浮世絵を合わせた狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』、『汐干のつと』などを著した。これら狂歌絵本では植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品を描き、狂歌人気と相まって歌磨の出世作となった。その後は蔦屋の援助を得て抜群の才を発揮、歌麿の画風の独立はその後援によって急速に進むこととなった。ここで歌麿は重政や清長の影響を脱し、自己表現として完成度の高い「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」のような清新な作風の美人画を制作した。寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。全身を描かず、半身あるいは大首絵でその女性の環境、日常、性格までを描こうとしたのであった。豊麗な情感は一面理想的な女性美の創造の結果であったが、一方、逆に最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは決して浄化の方向ではなく、生身の存在、息づき、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。歌麿は無線摺、朱線、ごますきなどといった版技法を用いて女性の肌の質感、衣裳、身体の質感及び量感表現を工夫していった。やがて、「正銘歌麿」という落款をするほどまでに美人画の歌麿時代を現出、自負した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。歌麿は背景を省略して白雲母を散りばめ、更にそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の表情だけでなく内面や艶も詳細に描くことが可能になった。歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘(三河の出のたかが有名で歌麿の死に水をとったとされる)など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。これに対して江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し美人画を書き続けた。しかし文化元年(1804年)5月、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受ける。これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに加え、北の政所や淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が当代の将軍・徳川家斉を揶揄する意図があったと見なされたためである。この刑の後、歌麿は非常にやつれ、病気になったとされる。しかし歌麿の人気は衰えず、版元たちは病から回復する見込みがないと知ると、これが最後と版下絵の依頼が殺到し、まるで他に描ける人がいないかのようだったという。その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去した。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。戒名は秋円了教信士。 開国後、他の例に漏れず多くが国外に流出した。特にボストン美術館のスポルディング・コレクションは歌麿の浮世絵383点を所蔵。公開を長く禁止したため非常に保存状態が良く、すぐに退色するツユクサの紫色もよく残っている。


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