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YTT NetBOOK 細野晴臣 全3巻


細野晴臣|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net

 商品NO:BSH-9012
 3巻組/B6変判/208~352頁
 発行:2005.9~2019.11

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 細野晴臣 全3巻 内容詳細

はっぴいえんど、キャラメル・ママ、ティン・パン・アレー、YMO、FOE……。
音楽家・細野晴臣が、音楽はもちろん、友人、セックス、家族、死、祈りなど、細野晴臣を知る珠玉の3冊。




 細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING

細野晴臣|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net


 著者:細野晴臣
 編集:北中正和/B6変判/336頁/2005.9

はっぴいえんど、キャラメル・ママ、ティン・パン・アレー、YMO、FOE……。
つねにポップでアヴァンギャルドな細野ワールドの核心に迫る。
30年の親交から生まれた、会心のインタビュー。

 



 細野晴臣 分福茶釜

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 著者:細野晴臣
 聞き手:鈴木惣一朗/B6変判/208頁/2011.2

音楽家・細野晴臣が、音楽はもちろん、友人、セックス、家族、死、祈りなど、人生にとって大事な80テーマについて存分に語る。
豊かな「福」の知恵がたっぷり詰まった一冊。
解説=立川志の輔

 



 細野晴臣 とまっていた時計がまたうごきはじめた

細野晴臣|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net


 著者:細野晴臣
 聞き手:鈴木惣一朗/B6変判/352頁/2019.11

「いまは音楽の話だけをしていたい」──懐かしい音楽の話は、お笑い、隕石、原発、友の死を経めぐり、また音楽へと戻ってくる。
■解説:
never young beach 安部勇磨(ミュージシャン)

 
まえがき 細野晴臣
対話1 「この世で起きているすべてが想定外。想定外がないとなにも生まれてこない」
 ・高い台に乗る ・種をまくだけ ・忘れる才能 ・豆腐を切るような ・タンゴがある街 ・年金をもらう
対話2 「エッセンスなんだよ、そこにあるのは。かたちじゃなくてエッセンス」
 ・窓のない風呂場 ・YMOとベンチャーズ ・最後のカワウソ ・ちゅらんちゅらん ・ともしび
 ・デモテープのエッセンス
対話3 「誰かがやらないとホントになくなっちゃう。ぼくがやれば、かろうじて少しは生き長らえる」
 ・政治的な歌 ・名曲刑事 ・三枚におろす ・すでに誰かがやってること ・昨日がよみがえる
対話4 「古賀政男さんは、やっぱりどっしりしてる。誰も突き崩せないし、なんか根が深い」
 ・おいしいイワナ ・発明のある曲 ・服部良一と古賀政男 ・選びのセンス
対話5 「ごはんがおいしくて、お風呂が気持ちいい。それでじゅうぶん幸せだと思った」
 ・聴いているうちが花 ・人と人との間に ・完成のダンス ・タブラ・ラサ ・仕事じゃなくて生業
 ・サーファーになりたかった ・わざと迷う ・歌謡曲と唱歌
対話6 「いまだに自分にはなんのノウハウもない。常に白紙。そこでサバイバルスイッチが入るんだ」
 ・ルイジアナ生まれの白金育ち ・あの世の曲ばかり ・ミックスはお好き? ・ぶつかったら左に曲がる
対話7 「ニューヨークに行って、皿洗いでもしながらミュージシャンの道を歩んでいたら、ああいうセッションをやっていたかもしれないね」
 ・飽きない遊び ・見えない大木 ・それがガースのかわいいところ ・ポランスキーつながり
 ・これはハワイアンですか?
対話8 「地震で倒れたままだった、ゼンマイの蓄音機からちゃんと音が出た。そこから、とまっていた時計がまたうごきはじめた」
 ・おかあさん ・泣き歌の時代 ・とまっていた時計 ・思い出すことに近い ・アイ・ヘイト・マイセルフ
 ・一番いい東京 ・引退宣言
対話9 「七十歳になるころには、いろんなしがらみなんかもすっかり忘れて、音楽に没頭できるんじゃないか」
 ・「しまった」 ・全曲セルフカバー ・なにも見えない ・潮来スワンプ ・演歌の気持ち ・長生きしてね
 ・シェケナベイベー ・シンプルな生活
あとがき 鈴木惣一朗



細野晴臣 ほそのはるおみ
1947年(昭和22年)、東京都港区生まれ。父方の祖父は鉄道官僚で、タイタニック号処女航海唯一の日本人乗客であった細野正文。母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。中学時代にロックに興味を持ち、15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。漫画家を志したこともあるが、立教高等学校(現・立教新座高等学校)、立教大学の同級生だった西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。
立教大学在学中にベースを始め、数多くのバンドを経た1969年、エイプリル・フールのベーシストとしてメジャーデビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成し、日本語ロックの礎を築く(本人は当初、日本語でロックを歌うことに反対していたという)。1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と平行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実などのプロデュースも行う。
自身のソロ・アルバムでは、ファーストの『HOSONO HOUSE』(1973年)は当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音を行い、その後の『トロピカル・ダンディー』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、『はらいそ』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチし、この三部作でのニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンドは海外の好事家からも注目されるようになる(この作品に加えて、プロデュース作品である西岡恭蔵の『ろっかばいまいべいびい』がある。名義上はプロデュースだが、実質は共作である)。漫画家の諸星大二郎のファンであり、彼の漫画のタイトルから曲名をつけたこともある。
シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていった1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ (Y.M.O.) を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、1980年にはその活動がブームを巻き起こす。Y.M.O.の成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「YEN」の高橋との共同による立ち上げなど個人としても精力的に活動を行う。また、ヴィデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース、ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけをつくった。
1983年のYMO散開(解散)後は、テイチクに移籍し、「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからはピチカート・ファイヴやWorld Standardを輩出。また、自身の代表作として映画『銀河鉄道の夜』のサウンド・トラックを手掛ける。Monadoレーベルからは実験的な作品を中心にいわゆる「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。代表作として映画『パラダイスビュー』のサウンド・トラックを手掛ける。その後、1989年にエピック・ソニーに移籍し、ソロアルバム『omni Sight Seeing』を発表。また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンド・トラックを手掛ける。その後、ソロアルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)などをこなしながらも、ソロアルバム発表や多くの他アーティストとのユニット結成など自己の音楽活動も枚挙に暇が無い。
Y.M.O.時代からの多忙と、日本のバブル崩壊以前の消費社会に対する疲弊に辟易とした後、1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに深くアプローチし、大量消費に頼らない音楽を模索した。
自身のレーベル「daisyworld discs」を1996年に創設、2002年よりYMO時代の盟友、高橋幸宏とスケッチ・ショウ (SKETCH SHOW) を結成しフォーキーなエレクトロニカサウンドに取り組む。また2005年にはHISにてシングルをリリース、翌年この名義にて忌野清志郎のライブに参加するなどしている。
SKETCH SHOWは坂本龍一ともコラボレートしており、ライヴやコンピレーション・アルバムでは3人でヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS) として活動も行う。2007年にはHASとしてのライブ活動のほか、YMOとしても「RYDEEN 79/07」を発表、さらにはHASYMOとしても「RESCUE」を発表するなど、活発な活動を行っている。


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