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BOOK

鳥居強右衛門
── 語り継がれる武士の魂 ──

鳥居強右衛門|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net

 商品NO:BSH-534
 四六判/300頁/発行:2018.9

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鳥居強右衛門 語り継がれる武士の魂 内容詳細



天正3年の長篠合戦で朽ちた無名の兵は、なぜ数多の文献に名を残し旗に姿を描かれたのか。鳥居強右衛門の実像と虚像から歴史とは何かを考える。
武士の忠義が《歴史》になるとき――。
自らの命を顧みず、磔に散った一人の侍。その態度が称えられ、姿は旗に描かれ、いつしか武士の鑑と祀られ、後世に伝わった。“名もなき”侍の名が現代にまで残った理由を解き明かす。
   著者:金子拓

目 次
はじめに――無名にして有名な武士
鳥居強右衛門という人物
『水曜どうでしょう』の「歴史小芝居」
本書で述べること
▶第一部 鳥居強右衛門とは何者か◀
第1章 長篠の戦いに至るまで
奥平氏と山家三方衆
山家三方衆と武田氏
徳川家康による長篠城攻め
奥平定能父子の内通
作手退去後の定能父子
長篠城を奪われた武田氏の動き
奥平信昌長篠城に入る
第2章 長篠城攻防戦と鳥居強右衛門
天正3年における武田氏の三河侵入
武田勝頼の三河入り
武田軍長篠城へ
長篠城の攻防戦
奥平軍の奮闘
強右衛門をめぐる根本史料
史料が語る使者・強右衛門
捕えられ殺されるまで
意外にちがうふたつの史料
第3章 鳥居強右衛門伝説の成立
強右衛門をめぐる研究
強右衛門は実在したのか
強右衛門の子孫
強右衛門の身分
『甫庵信長記』『三河物語』に先行する史料
強右衛門をめぐる史料と記事内容
強右衛門伝説の成立と変容
使者の役割
▶第二部 落合左平次道次背旗は語る◀
第4章 目撃者・落合左平次道次
落合左平次道次の実像
落合道次と落合道久
『寛永諸家系図伝』の落合道久
道久の主君は誰か?
道久の子孫・江戸落合家
紀州落合家の系図・伝承
初代の事跡を掘り起こす6代道広
知行目録が示す落合家の家柄
初代左平次の諱
江戸落合家と紀州落合家の溝
「背旗」は誰が、いつつくったのか
第5章
旗指物の伝来と鳥居強右衛門像の流布
5点ある強右衛門の旗指物
落合家の旗指物
昭和42年の調査
6代道広作成の「指物覚」
『系図元帳』に見える歴代の旗指物
5点の旗指物の制作者
6代道広による旗指物制作
兵法家平山行蔵と強右衛門像
強右衛門像の流布
第6章 指物としての「背旗」
「背旗」は背中に付けたのか?
旗指物のつくり
旗指物の発生論
目立つ指物
長篠の戦いにおける指物
軍旗としての「背旗」
戦国時代における旗指物の大きさ
「背旗」の制作目的と働き
第7章 よみがえる「落合左平次指物」
「逆さ磔」の衝撃
逆さ磔説への反論
逆さ磔説の否定
逆さ磔伝承の不思議
落合家から紀州徳川家へ
修理前の科学的調査
裏の出現
よみがえる「背旗」
▶第三部 伝承される鳥居強右衛門像◀
第8章 近代の鳥居強右衛門
国定教科書『尋常小学読本』の強右衛門
錦絵と歌舞伎の強右衛門
国定教科書採用の背景
重層化する強右衛門伝説
谷村計介と「アラモの碑」
吉川英治から内田叶夢へ
失敗作『鳥居強右衛門』
ロッパの予感
終章 三河武士鳥居強右衛門
変わる/変わらない鳥居強右衛門像
強右衛門を弔う
出生地市田における顕彰
松永寺における供養と顕彰
三河人による強右衛門顕彰前史
鳥居家による先祖顕彰
鳥居強右衛門堂を訪ねて
強右衛門信仰
鳥居強右衛門に歴史の面白さをまなぶ
おわりに

鳥居強右衛門 とりい すねえもん
奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)。
奥平信昌は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、武田勝頼率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。そこで信昌は、、最後の手段として、長篠城から武田氏の大軍をすり抜けて家康のいる岡崎城まで赴き援軍を要請しようとする。強右衛門は、この困難なミッションを、決死覚悟の使者役を自ら志願したのであった。
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