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BOOK

ガラシャ
── つくられた「戦国のヒロイン」像 ──

ガラシャ|学習と教育を支援する通販会社-YTT Net

 商品NO:BSH-545
 四六判/324頁/発行:2021.10

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ガラシャ つくられた「戦国のヒロイン」像 内容詳細



明智光秀の娘として生まれ、細川忠興に嫁ぎ、関ヶ原合戦直前に命を投げ出したガラシャ。
その生涯と死後に広まったイメージを、史実を積み重ねた客観的な検証によって解き明かす。
   著者:山田貴司

目 次
はじめに――ハイブリッドな歴史的イメージを有する「戦国のヒロイン」
第一章 父・明智光秀の前半生
光秀の出自
光秀が生まれた年のこと
若き日の光秀、越前に赴く
義昭の意を受け、近江の田中城へ
義昭麾下の「足軽衆」に
将軍義昭・信長連合政権のもとで
信長を唯一の主君に
第二章 ガラシャ、誕生から結婚まで
ガラシャの誕生
ガラシャの母
ガラシャの姉妹
ガラシャの兄弟
幼少期をどこで過ごしたのか
義父となった藤孝、夫となった忠興
忠興との結婚
新婚時代に生まれた子どもたち
細川家の血縁ネットワークと宗教への関心
第三章
本能寺の変により「謀反人の娘」に
織田家中における光秀と藤孝・忠興親子
本能寺の変後の光秀と細川家
「離別」されたガラシャ
隠棲の地はどこか
丹後味土野説をめぐる議論
「離別」され、隠棲することになった理由
光秀への思い、そして隠棲生活
本能寺の変が細川家に与えた影響
第四章 ガラシャのキリスト教入信
隠棲先からの帰還
復縁したガラシャの動静とその居所
忠興の側室藤の存在
入信のきっかけ
家譜類が伝える入信経緯
ガラシャの教会訪問
教会訪問後の様子と信仰生活
秀吉のキリスト教政策の転換
「覚」の翌日に出された「伴天連追放令」
ガラシャの洗礼
洗礼名の選定経緯
伏せられた改宗の事実
吐露された離婚願望
家族の洗礼
忠興との関係の変化
第五章 関ケ原合戦前夜に尾と訪れたガラシャの最期
「秀次事件」と細川家
一五九七年に起こった「二十六聖人殉教事件」
秀吉没後の権力闘争と細川家
忠興と家康の関係
挙兵した西軍、細川家を目の敵に
ガラシャ、最期の様子
ガラシャが死を選択した理由
ガラシャの死は自殺とみなされないのか
誰が一緒に最期を迎えたのか
人質確保作戦への影響
人質の取り扱いの難しさ
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第六章
ガラシャ死後における細川家の動き
細川家と関ケ原合戦
ガラシャの死後にみられた忠興のキリスト教政策
ガラシャの葬儀と年忌法要
家族の行く末
キリスト教政策の方針転換と忠興の晩年
第七章 十九世紀までの歴史的イメージ
歴史的イメージの問題を取り上げる理由
細川家におけるガラシャの記憶と記録
軍記物や列女伝にみえる歴史的イメージ
明治時代中期までのガラシャの絵画
ヨーロッパで綴られた歴史的イメージ
音楽劇になったガラシャの生涯
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第八章 二十世紀に融合・転換した歴史的イメージ
明治時代初頭のキリスト教政策の転換
ヨーロッパで形成された歴史的イメージの逆輸入
キリシタンイメージの拡散と定着
キリシタンとしてガラシャを描く
落ちていった構成要素、二人の子ども殺害説
落ちていった構成要素、ガラシャの殉教説
美貌説の是非
こんにちのガラシャイメージへ
おわりに/参考文献

細川 ガラシャ 伽羅奢、迦羅奢、Gracia/明智玉・珠(子) 永禄6年(1563年)~慶長5年7月17日(1600年8月25日)
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(玉/珠)または玉子。法名は秀林院。キリスト教徒。子に、於長(おちょう:前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。
慶長5(1600)年7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従ってまず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じていた。 石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。 家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。翌日、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。石田方はガラシャの死の壮絶さに驚き、諸大名の妻子を人質に取る作戦はむやみに拡大しなかった。
『細川家記』によると、辞世の句として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。
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